ある種バーチャルなブログ

自分が触れた創作物についてまとめるつもりです

天気の子感想

天気の子感想

 


天気の子の物語は一貫して帆高が陽菜を救おうとする話でした。

まず陽菜のバックボーンから私が考えたことについてまとめ、バックボーンと帆高が救ったシーンとのリンク、陽菜の社会的な役割、役割を全うした結果、帆高の選択、選択の結果への帆高の解釈あたりについてつらつら書いていきたいと思います。

 


陽菜のバックボーン

陽菜は見た限り母子家庭の長女で元々は弟と母との3人暮らしだったのだろうと推測されます。けれども母は物語の一年前に病で亡くなっていて、現在は弟と2人暮らし。本来ならどこかに引き取られるべきだったけれど引き取られると弟と陽菜は離れ離れにされてしまうようで、そうはなりたくない陽菜は年齢を偽ってバイトをしてなんとか生活を保っていた、というのが物語開始時点の陽菜でした。

弟と離れ離れにされてしまう、お金を自分で稼がざるを得ない、社会的弱者的な側面と大人の都合に振り回される子供という側面の強いキャラクターだなあと書きながら思いました。

そしてこのあと、陽菜にはさらなる不幸が訪れます。

 


帆高が1回目陽菜を救うシーン

陽菜は年齢がバレてバイトをクビになります。けれども都合からお金を稼がないといけない。そこで陽菜は風俗に踏み入れようとします。そこを目撃した帆高が陽菜の腕を取り駆け出す。けれども捕まる。そして都合よく所持していた銃()を発砲しその場から逃げ出す。

銃はヤバイだろと思いました(小並感)

まあそれはさておきこのシーンただの出会いのシーンかと思ったんですけど、2回目に帆高が陽菜を救うシーンと構図が同じなんだなあと思い返してから気づきました。

バックボーンで述べた感じで陽菜は社会的弱者で居場所がない。そんな陽菜を唯一受け入れる場所が風俗で、けれども本人が少なくとも嫌なのにその境遇を許容できないと手を取り駆け出したのが帆高という構図。

ここについては2回目に救うシーンで詳しく書きたいと思います。

 


陽菜の社会的な役割

天気の巫女、天気を晴れにすることです。

陽菜は一年前母親が死ぬ直前に超自然的な存在と契約し、天気を操る術を得ています。まあ、ファンタジー。これを用いて陽菜は頼まれお金をもらい天気を晴れにしていきます。これに対して陽菜は自分の役割がわかったといい、お金を稼ぐ側面もありますが、周りの人々が求めるがままに役割を全うしていきます。けれどもこの天気を操る術には代償があり使えば使うほど体が透明になっていつか消えてしまう。そしてこの消えることこそ天気の巫女という仕事の本当の意味での役割で、天気の巫女が消えることで天候が安定になり晴れが取り戻される。というものでした。

この天気の巫女の役割が最初の風俗に踏み入れるところと構造が多分同じで、ようやく見つけた役割の中でも社会とか大人とかそういうどうにもならないもののために犠牲にならなければならない人身御供に陽菜は追いやられてしまう。天気の巫女の役割の性質上、求められるがままに流された先に待っていたのが消滅という。だから多分陽菜は最初受け入れたんだと思うんですよ。自分にようやくできた役割の晴れにするということの究極的な目的のためなら仕方ない、みたいな感じで。

 


帆高の選択

陽菜の犠牲によって晴れになったと知らない人々への苛立ちや、止めようとする大人への恨み言を吐きながら消えてしまった陽菜を取り戻すために駆け出します。

この辺り銃についての考察しないといけないんですけど、そこはちょっとまだ統合できそうにないので割愛。

そしえ陽菜の元に帆高はたどり着き、手を掴む。陽菜は自分が消えなければ晴れは訪れないと自分の役割を全うすべきではないかと言うが、帆高はそれに対して晴れなんかより陽菜さんの方がいいと返し帆高は陽菜を取り戻す。けれども東京は晴れを二度と取り戻すことはなく、次第に海に沈んでいった(まじか)。

東京が海に沈むのはまあ代償の誇張表現としてやったとは思うんですけどちょっとリアリティレベル下げてますよね。

そこはまあどうでもいいんですけど。

帆高はこのシーンもちろん恋愛感情が強いと思うんですけど多分メタ的には他の人々や社会の都合に押し流されて陽菜が犠牲になるのを回避するという構図がやっぱり1回目に陽菜を救った時と一致してるんですよ。違いとしては陽菜に求められるものを知っているか知っていないか。1回目は知らずに駆け出していた。2回目は知った上でそれでも陽菜が犠牲になるのは許容できないと駆け出していた。唯一残念な点としては雨によって発生する犠牲までは把握してなかったから完全なトロッコ問題としては成立してないところかなあと思います。ただラスト見る限りそこはわざとかもしれないんですけど。

 


選択の結果の解釈

3年後ですね。

瀧くんのおばあちゃんは海か陸かは人と天気の都合で誰のせいでもないと言う。

須賀は思い上がるな、たまたまと言う。

ずっと自分のせいで東京が沈んだのではと悩み続けていた帆高はそう納得させるのも手かもしれないと思う。

けれど三年ぶりに陽菜を見てほかの誰のせいでもなくこの結末を自分達が選び取ったと言って幕が降りる。

ここはまだ解釈が難しいんですけど、やったことを自分の責任として受け入れそして少なくとも帆高たちはそれでいいと受け入れたってことなのかなあと。

 

 

 

総評として、やっぱり帆高が陽菜を救う話だったなあと。100を救うために1が犠牲になるのを許容できなくていいという話だったのかなと思います。少なくともそう感じたから私はこの作品にすごく共感したしとても良かったと思います。けれども元からそういう価値観を持っている人にしか響かなくて鞍替えさせる必要はないけどそういう価値観もあると伝えるにはちょっと弱いかなあと思います。けれどもならどうしたらいいとかは思い浮かばないし現時点で新海誠、ひいてはアニメの表現としてそういう価値観の話としてはやれるところはやりきった話なのかなあなんて思いました。